『勇払開拓史』

江戸幕府第11代征夷大将軍徳川 家斉(とくがわ いえなり)(在位:1787年 - 1837年)。  千人同心の長男は千人同心の家系を継ぐことができましたが、次男・三男等は農民として生活するしかなかったのですが、分地制限令によって土地の分割が許されていなかったのです。この時代にロシアの南下政策でロシア船が蝦夷地(北海道)にたびたび接近して脅威に感じていた徳川幕府はこの対策に着手していました。八王子千人同心組頭:原半左衛門(胤敦))=(はらはんざえもん・たねあつ)は、寛政11年(1799年)に次男・三男対策として蝦夷地(北海道)の警備と開拓を幕府に願いでたのです。千人同心家は士農工商『兵農分離が原則』の時代において半士半農と言うまれな集団でした。日ごろ農作や養蚕を行い、武術の心得もあることから、蝦夷地(北海道)の警備と開拓に適していると寛政12年(1800年)1月幕府に承認され、寛政12年(1800年)3月20日に弟・原新介が千人同心の子弟43名で出発。翌日に原半左衛門(胤敦)が57名をつれて八王子から蝦夷地(北海道)に出発したのでした。両隊は函館に上陸し体制を整えたあと100名を引き連れ開拓地を目指したのです。 新介は50名を引き連れ勇武津(苫小牧市勇払)に入植、半左衛門は50人を引き連れて白糠町の地に入植。両隊は自給自足による、警備、開拓、交易、道路建設などに従事したのでした。このことが北海道開拓の第一歩となりましたが、移住した同心たちが自給自足するには程遠い収穫高でした。翌年2月には先発隊の補充として30名が八王子から蝦夷地(北海道)に向かっています。しかし、飢えと極寒の苛酷な自然環境などで不毛の原野の開拓は思うようにまかせず、文化元年(1804年)までに病死者32名・帰国者19名を出し、入植4年目に開拓を断念したのでした。また、八王子千人同心130名とは別に、組頭格3名が家族とともに従事しました。この3名は原隊とは合流せず、幕府の役人とともに連絡担当や農業指導などにあたりました。組頭:河西祐助(かさいゆうすけ)の妻・梅は病気を得て、入植3年後の享和3年(1803年)に5歳と2歳の幼い子を残して25歳の若さで死亡したのでした。さらに、4年後の文化4年(1807年)に河西祐助(かさいゆうすけ)も死亡し、幼い子が残されるみとなり、夜鳴き梅女の伝説が語り伝えられています。その後、組織が改正され、一部の同心が地雇い同心として蝦夷地(北海道)に残りますが、原半左衛門(胤敦)と弟・新介らは文化5年(1808年)に江戸に帰還し原半左衛門(胤敦)は千人頭に復帰したのでした。このことが、蝦夷地(北海道)開拓の先駆けとなり、明治に入り屯田兵による本格的な北海道開拓となったのです。

勇武津千人同心DVD
勇武津千人同心DVD

  依頼を受けてDVDビデオを製作いたしました

八王子千人同心=勇武津千人同心

           (勇払千人隊)(勇払千人同心)

DVD名:勇武津千人同心(蝦夷地勇武津開拓史)

収録時間:20分48秒

 

勇武津千人同心=八王子千人同心

蝦夷地開拓移住隊士(北海道開拓の先駆者)

You Tube時間制限のため8分51秒に編集短縮しています。

八王子千人同心=勇武津千人同心にまつわる史跡

蝦夷地開拓移住隊士の墓(案内板)

 

蝦夷地開拓移住隊士の墓(冬景色・全景)

 

蝦夷地開拓移住隊士の墓(御堂)

 

 

蝦夷地開拓移住隊士の墓

蝦夷地開拓移住隊士の墓

こちらには、河西祐助の妻

・梅の墓石があります。

勇武津会所碑(旧:運上屋)

勇武津資料館

(当時の会所をモデルとして建造されました)

勇武津波切不動堂

河西祐助(かさいゆうすけ)らが守っていた

不動堂。

勇武津資料館 の場所

蝦夷地開拓移住隊士墓の場所

勇武津波切不動堂 の場所

勇武津会所碑(旧:運上屋) の場所